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迷いの国のxxx HYPER

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おじいちゃんのこと。

今日はおじいちゃんのことを書きます。

こんなことをここで公表するのは、
もしかするととても不謹慎なことかもしれません。
でも、自分の気持ちを整理するため、
それから贖罪のため。
そして、おじいちゃんのことを知ってほしいため。
我儘だし身勝手だと思うけれども、書きます。

おじいちゃんが3/10に亡くなりました。
81歳でした。

お友達のみんなには、心配や迷惑をかけてしまいました。
本当にごめんなさい。
でも、これだけは信じてほしいです。
私は、みんなにとても感謝しています。
もしあの時、みんなと一緒にいなかったら、
おじいちゃんに会いに行くのが、もっと遅くなっていたと思うから。
それに、みんながいなかったら、
会いに行く前に、気持ちが挫けてしまっていたと思うから。
だから、本当にありがとう。

ここから先は、おじいちゃんのこと。


おじいちゃんが脳梗塞で倒れたのは、2/22のことでした。
救急車で病院に運ばれ、
その日の夜には、肺浮腫と肺炎、不整脈のため、
危篤状態となりました。

それから少し持ち直しましたが、
3月に入るまで殆ど意識は戻らず、
酸素を直接気管に管で送っている状態が続きました。
心不全も続いていました。

お見舞いに行く度、
そんなおじいちゃんの姿を見ているのがとても辛かったです。
時々呼吸をお休みしたり、息苦しそうにする度、
そして脈が乱れる度、
私は、何も出来ない自分が歯痒くてなりませんでした。
息苦しくて、ただただ祈ることしかできませんでした。

でも3月に入って、おじいちゃんは回復してきました。
意識も少し戻り、酸素も、管からマスクになりました。
呼吸もとても楽そうになっていたし、
話しかけると、頷いたり、首を振ったりしました。
医療従事者である私の妹も、
「すごく安定してきているから、大丈夫じゃないか」
と言っていました。

亡くなる前日の3/9は、
おじいちゃんとおばあちゃんの59回目の結婚記念日でした。
おじいちゃんは耳が遠かったので、
「今日は結婚記念日ですね。
 覚えていますか」
と書いて見せたところ、
ペンを持たせてほしいというしぐさをしたので、
渡したら、紙に何かを書いたそうです。

その日には、酸素マスクも外れて、自発呼吸だけになりました。
それまでは、朝から夜まで、
おばあちゃんや家族がついていたのですが、
「明日からはお見舞いは病院の決まりなので
 午後からにして下さい」
と言われました。
ずっと続いていた強心剤の投与もなくなって、
私たち家族は、おじいちゃんは元気になるんだと、
誰もが思っていました。
長丁場になりそうだね、なんていう話をしていました。

亡くなった時、おじいちゃんの傍にいたのは、
おばあちゃんだけでした。
元気になると安心していたから、
父も、母も、私も、妹も、
おじいちゃんの最期には、間に合いませんでした。

おじいちゃんが亡くなってからすぐ、
おばあちゃんが探し物があると言って家に戻りました。

おばあちゃんが探してきたのは、
生前、おじいちゃんが「何かあったらこれを見るように」
と遺したひとつの箱でした。

その箱の中には、
一冊のノートと、それに挟まれたいくつかのメモが入っていました。

メモを見て、私たち家族は本当に驚きました。
そこには、
自分の名前、お世話になるお寺の名前、
親戚の名前と連絡先、
葬儀の会場、葬儀の際に用意するものの内容、値段などが
本当に事細かに、おじいちゃんの几帳面な字で書いてありました。

葬儀に来て下さった方へのお返しの品の内容や受付の区分といった、
本当に細かいことまで、そこにはいっぱいに書かれていました。

それと一緒に、必要になるであろうお金が、
全てあて先別に封筒に分けて用意されていました。
おばあちゃんの当面の生活費までもが、きちんと分けてありました。
年金の手続き書類や、金融機関で必要になる書類なども
全てそこにありました。

おじいちゃんの誕生日は3/26でした。

おじいちゃんは、少し前から周囲の人に
「今年の誕生日には、俺はいない」
と言っていたそうです。
全てを覚悟し、おじいちゃんは用意をしていたようです。
誰にも相談せず、たった一人で。

人間は、自分の死を目の前にした時、
ここまで家族を思い、準備できるものなのでしょうか。
私にはとても出来そうにありません。
本当に、おじいちゃんは、とても強く、とても優しい人だったんだと思います。
こんなことは、きっと、そう多くの人に出来ることではないと思います。
沢山の辛い出来事を乗り越えたおじいちゃんだからこそ、
出来たことなんじゃないかと思います。

おじいちゃんは、黙って、全てを抱えていってしまいました。

おじいちゃんが若い頃は戦争中でした。
おじいちゃんは、土浦にあった、
予科練というところに志願して所属していました。

遺されたメモの中に、おじいちゃんの略歴と、
気持ちを綴ったものがありました。
きっと父の弔辞用に、と遺したものだったと思います。

その内容を、少しだけ書きます。

昭和20年、終戦の年、
おじいちゃんは特攻隊に変属されました。
8月13日、横須賀を出発し、北海道の千歳空港に向かったそうです。
そして途中の水戸駅で、終戦を迎えました。
後2日終戦が遅かったならば、きっと私はいなかったでしょう。
戦争が終わってから、警察官となったおじいちゃん。

父から聞いた話では、
父が生まれてすぐ、おばあちゃんが大きな病気にかかってからというもの、
何よりも家族と一緒にいることを願い、
本来ならば昇格するために必要となる転属は全て断って、
一人っ子の父とおばあちゃんの近くにずっといてくれたそうです。

でも、40歳になって、リュウマチを患い、
それから40年、他にも色々な病気にかかりました。
でも、ずっと頑張って、生きてきたんだと思います。

メモの最後には、80歳過ぎまで生きたことへの感謝と、
「家族に何も出来なかった」と書かれていました。
私はそれを見て、涙が止まらなくなりました。
おじいちゃんは、大学に入った時も、成人した時も、
そして毎年の誕生日も欠かさずお祝いを沢山くれました。
おじいちゃんがいなかったら、希望した大学だって行けなかったかもしれません。
自分の死に対してまでも、家族を想い、ここまで準備していて、
何も出来なかったと思うおじいちゃんの優しさや気持ちを思うと、
涙が溢れて止まりませんでした。

本当のことは、おじいちゃんにしかわかりません。
だからここからは私の勝手な予想です。

おじいちゃんは、本当におばあちゃんのことが好きだったのだと思います。
そして、おじいちゃんは、死ぬ日を、自分で決めていたように思います。
結婚記念日は、一緒に過ごそうと、思っていたんじゃないかと思います。

おじいちゃんが、結婚記念日に書いた、最期のメモは、
最初、絵か、あるいは内容のない、ペンの動いた跡のように見えました。
でも、亡くなった後で、それをずっと眺めていたら、
それが字であることがわかりました。
そこには、「ありがとう」「59回目だね」「おめでとう」
と書かれていました。
それまで、殆ど意識がなかったおじいちゃんだけど、
その日、おじいちゃんはちゃんと全部わかっていました。

死ぬ時も、私たちが困らないよう、
私たちがいない時と決めていたのではないかと、私は勝手に思っています。
だってそうでなければ、あの優しいおじいちゃんが、
私たちを待たずにいってしまうなんてことはないと思うから。

私はおじいちゃんに何の恩返しも出来ませんでした。
おじいちゃんがいなくなってからも、
私に出来ることは、馬鹿みたいに泣くことと、
お線香をあげ続けることだけでした。
火葬されてしまうまで、
ただただ、昼も夜もずっとお線香をあげていました。

おじいちゃんの顔は、とても穏やかでした。
本当に優しい、眠っているような顔をしていました。
今にも起きてくる気がずっとしていました。
だから、どうしても手を合わせる気持ちにはなれなかったし、
火葬される時は、どうしてもどうしても
止めてほしいという気持ちがなくなりませんでした。
その後のことは、もう現実感がなくて、
私は、まだおじいちゃんが生きている気がしてなりません。
病院に行ったら、まだおじいちゃんがいると思っています。
子供みたいだけど、
今あの小さな箱に入っているのはおじいちゃんじゃない、
別のものだと思います。

私は、おじいちゃんのように、強く、優しい人間になりたいと思いました。
おじいちゃんにはきっと敵わないと思うけれど。
おじいちゃんのような生き方が出来るように。
周りの人の為に生きられるように。
人を大切に、悪く思わず、恨まず、大切にし、
全てを自分の中に納められる、強い人間になりたいです。


長い文章になってしまいました。
読んでくれたあなたにも感謝。
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